■Vol.7渡邊美佐(渡辺プロダクション会長)          1998年5月15日(金)
 タレントは何と言っても基礎が大事。 だからそのことだけは、ずっと きちんとやってきました。夫ですか。 なんとなく仕事を手伝ってくれ と言われて、そのうちプロポーズされて・・・
 渡邊美佐プロフィール
1955年故渡邊晋前社長と共に「渡辺プロダクション」を設立、ショービジネスの世界に近代化をもたらす。
テレビ創世記の「シャボン玉ホリデー」はあまりにも有名である。
戦後ショービジネスのリーダー的存在であった、渡辺プロダクション会長渡邊美佐さんを迎えての今回は、渡辺プロ発展の秘密を探りながら、新しいムーブメントであったウエスタンカーニバルなどに代表される エンターテイメントの変遷をたどります。
 渡邊美佐は曲直瀬正雄花子(1900〜1974)夫妻の長女として横浜に生まれ、4人の妹、2人の弟がいる。
 家祖は日本医学に大きな足跡を残し、室町末期から安土桃山時代に活躍した曲直瀬道三(まなせどうさん1507〜1594)である。現在弟の次男陽造が第16代。
 祖父は山鹿旗之進(1860〜1954)といい、牧師であり牧会・教育界で活躍。あの赤穂浪士討ち入り、大石良雄の陣太鼓で有名になった。兵学者山鹿流を唱えた山鹿素行(1622〜1685)の流れをひく。
 母親花子は横浜の貿易商、牧野家に生まれる。明治初期英国マンチェスターから横浜に渡り、貿易に従事したジョセフ・ヒギンボサムと牧野ギンが結婚、生まれた次男の暎次郎(1872生まれ)が花子の父である。
 尚、三男の牧野金三郎は1899年にハワイへ移住、邦字新聞「ハワイ報知」の創始者としてその名を残している。
 曲直瀬美佐は横浜の青木小学校からミッション系の捜真女学校に入学。1945年宮城県登米郡登米町に疎開し、仙台のミッションスクール宮城女学院に転入し、ここから東京の日本女子大に入学する。
 終戦の翌年、母花子が仙台駐留の米軍基地に通訳として採用され、両親は仙台に曲直瀬プロダクションの前身であるオリエンタル芸能社を設立する。
 美佐は学生時代(女子大)より、アルバイトで学生バンドの通訳兼マネージャーをやり、主に進駐軍の王子キャンプに出入りする。
 この頃、ジャズバンド「シックスジョーズ」のマネージメントを引き受け、リーダーの渡邊晋と知り合う。
 晋と美佐は、ショービジネスの世界を合理化・近代化し、日本の音楽とミュージシャンをレベルアップさせ国際的に通用するものにとのテーマのもと、渡辺プロダクションを発足(1995年1月)させ、同年3月に結婚する。

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