■Vol.20船村徹 (作曲家)                      2000年9月18日(月)
本 名:福田博郎(ひろお)
出身地:昭和7年 栃木県船生村源塩谷町に生まれる
出身校:東洋音楽学校(現、東京音楽大学)ピアノ科

同校で知己を得た精力的な作曲活動を展開する。
作家として「演歌」書きでなく「流行歌」書きを自称されてる船村徹さんと伊藤強のトークを楽しんで頂きます。
「歌心のある歌手になればなるほど、俺は燃える!くやしかつたら、俺の作った歌を唄ってみろ1。」かってこの言
葉を有名歌手に送り。「高齢化社会を見据えて、そういう人たちが、来し方を振り返って『ああ、おれの人生は良か
ったなあ』としみじみ思えるような作品を一曲でもいいから作りたい」とおっしやっていらっしやる「船村徹の作家
魂」に伊藤強がせまります。
船村徹プロフィール
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本名:福田博郎(ひろお)
昭和7年 栃木県船生村源塩谷町に生まれる。
昭和24年 上京、東洋音楽学校(現、東京音楽大学)ピアノ科に学ぶ。そのかたわら、同校で知己を得た盟友「高野公男」の作詩を得て精力的な作曲活動を展開する。しかし、厳しい専属制をひく往時のレコード界が、無名の作曲家を容易に受け入れるはずもなく、長い年月にわたり茨の道を歩くことになる。この時期、高野は新聞売り子、キャバレーのボーイ、船村は巷の演歌師、進駐軍慰問のバンドマスター等を体験、生活の糧を得る為の苦闘を重ねる。
昭和30年 キングレコードから発売された両名の作品「別れの一本杉」が空前の大ヒットとなり、世に出る。
昭和31年 松竹映画「別れの一本杉」が封切られる。
コロムビアレコードから招聘され、両名ともども待望の専属作家としての地位を獲得する。時に高野26才、船村24才。
同 年8月 入社第一作「早く帰ってコ」を発売するも、翌9月8日、水戸の国立病院で、高野公男永年にわたる無理がたたり、肺結核が悪化し他界。絶筆は、船村に宛てた遺書代わりの「男の友情」。
昭和36年 ロカビリー・ツイストなどが全盛のさなか、あえて純日本的な「王将」を世に問い、戦後初の「ミリオンセラー」という金字塔を確立。レコード大賞受賞。本作品にとどまらず、コロムビア在籍中数多くのヒット作品を世に送り、「大ヒットメーカー」として揺るぎない業界の 重鎮となる。
昭和53年 在籍22年のコロムビアを円満退社フリーの作曲家としての活動がはじまる。更に無名時代の高野・船村の往時の思いを馳せ、心機一転「二代目船村徹」を標榜、歌作りの原点を模索する「演歌巡礼」の旅を発意、東奔西走の日々がスタートする。
昭和55年 日本クラウンより「風雪ながれ旅」を発売、「古賀政男記念音楽大賞」を受賞。
昭和56年 正月元旦より読売新聞日曜版に、半自伝的なエッセイ「演歌巡礼」を執筆連載。
昭和58年 講談社より一冊の本となり発刊される。
昭和57年 日本クラウンより「兄弟船」を発売、翌年にかけてミリオンセラーとなる。
同  年 日本コロムビアから発売された「矢切の渡し」が大ヒット、30人の歌手が同一作品を歌う一大競作ブームを招来する。
特に「細川たかし」歌唱の同作品が ミリオンセラーとなり「第25回 日本レコード大賞・大賞」を受賞。
昭和63年 「故・高野公男・三十三回忌」にあたり全国的な規模で追悼供養演奏会を開催。
平成元年 テイチクから発売した「紅とんぼ」(ちあきなおみ・歌唱)で「藤田まさと賞」を受賞。
平成元年3月9日 献身的に各刑務所を慰問「法務大臣」より感謝状を授与される。
平成2年6月12日 「船村徹作曲生活15.000日パーティー」を船村作品を歌っている歌手、各界の名士を始め約700名のお客様を招いて全日空ホテルにて盛大に催す。
平成3年7月1日 「法務大臣」より2度目の感謝状を授与される。
平成3年 第33回・日本レコード大賞・大賞(北島三郎・歌唱)「北の大地」で受賞。
現在、社団法人日本作曲家協会会長、日本レコード大賞制定委員長、栃木県警察本部顧問、栃木女子刑務所篤志面接員、の役職につき、作曲はもとより、演歌巡礼、講演、審査員、等に活躍中である。
平成7年春 紫綬褒章受賞。
平成7年6月 星野哲郎先生の故あけみ夫人への鎮魂歌を自らが歌う、「あけみ・思い出にぬれながら」を発売、作詞 星野哲郎、作曲吉田正、編曲 市川昭介・三木たかし、という豪華大御所による作品で話題を呼ぶ。
平成12年3月 NHK放送文化賞・受賞。

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